「えっとさ、 僕は、ベットから上半身だけ起こし窓の外を眺めている里香に恐る恐る声をかけた。 「まだ……怒ってる?」 里香はこちらを見る様子もなく、一言だけ言い放った。 「怒ってる」 「そ……そう……」 顔を引きつらせ、落胆した声で返した。 里香の機嫌を損ねてしまった。 ああ、僕はなんてばかなんだろう。あそこで急がなければ良かったのに。 でもさ、あれはわざとじゃないんだ。そう、不可抗力なんだ。確かに僕が悪いんだけど……。 僕は読み終えた小説を里香に返しに行くところだった。そして、たまたま廊下で里香を見つけて、走り寄ったんだ。これがそもそもの失敗だったんだ。 このとき僕はスリッパを履いてたんだ。それも、病院にある普通のスリッパだ。そんなもので走ったりすればどうなるか――僕は考えてもなかった。 気づいた時にはすでに僕の体は前に倒れていた。 思いっきり転んだ。お笑い芸人が真っ青なほど見事だった。突然のことだったので腕で支えることも出来ず、顔面から床に突っ込んだ。それはもう、涙が出るくらい痛かった。 僕はゆっくりと起き上がり、あることに気がついた。手に持っていた小説がないのだ。 転んだときに落としたのだろうと思い、周りを探してみる。小説はすぐ見つかった。しかし、最悪なことも見つけた。 小説はなんともない。小説はなんともないのだが、小説のすぐ近くにいる人――里香が問題だった。 顔を両手で押さえてうずくまっていたのだ。しかも、涙目だった。 すぐに頭の中に最悪の状況が浮かんだ。 涙目でうずくまる里香。すぐ近くに落ちている小説――。 きっと、僕が転んだときに小説を投げてしまい、飛んでいった小説が里香の顔にぶつかってしまったのだろう。 僕はすぐに里香にかけよった。 「ごめん里香! 大丈夫か!?」 里香は険しい目で僕をにらみ、 「なにするのよ! 小説を拾って、投げた。 「わっ!? 里香、それは危な――くわっ!」 バシッと音を立て、小説(の背)が僕の鼻に当たる――いや、そんな生易しいものじゃない。直撃した。 あまりの痛さに鼻を押さえる。 「ってて……いきなりなにするんだよ、里香」 顔を上げたら里香はどこにもいなかった。 僕はそのあとすぐに里香の病室に来た。 意外なことに、里香は僕を病室から追い出さなかった。 そして、この現状である。 病室に気まずい空気がどっしりとたたずんでいる。里香は無言で窓の外を眺めている。たまに声をかけても、返ってくるのは素っ気無い言葉か沈黙。僕はオロオロするばかりだった。 永遠に続くんじゃないかと思った苦しい静寂――しかし、必ずしも終わりはある。 突然、コンコンと乾いた音が気まずい静寂を破る。それは扉をノックする音だった。 「里香さーん、昼食ですよー」 看護婦が昼食を持ってきた。それは、僕にしてみればこの状況を打開する救いの手だ。 扉が開き、看護婦が入ってくる。昼食を乗せたカートのガラガラと言う音が――部屋に入ったとたんに止んだ。 いや、別にそれほどおかしい訳じゃないんだけど、なぜか違和感があった。僕は気になって、看護婦のほうを見てみた。看護婦のほうを見て、 ……思いっきり顔が引きつった。 引きつった顔のままで看護婦は見事に石になっていた。きっと、この部屋の異様な空気――里香の怒りのオーラを感じ取ったんだろう。 看護婦泣かせの里香が怒ってるんだ。一体なにをさせられるか、恐怖してるんだろう。 看護婦は意を決したように一歩踏み出し、そのまま急いで昼食を里香のそばに置くとあっという間に出て行ってしまった。 ……扉のむこうでで看護婦さんが 全然救いの手じゃないし……。 僕は内心、ため息した。それと同時に、 カランカラン……。 なにかが落ちた音が、気まずい そちらを向いてみると、里香のベットのすぐ下に箸が落ちていた。里香が落としてしまったんだろう。つり上がった両目で落ちた箸をじっと見てる。それは無言の「取れ」というサインだ。 僕はパイプ椅子から立ち、箸を取りに行く。僕はこのとき、箸が落ちたことに全く疑問に思わなかった。普通は思わないけど、今の里香は怒ってるんだ。少しは考えるべきだった。 箸を取るため僕はかがんだ。そして、べしゃ、と頭の上になにかがかかった。少し温かい。ゆっくりと、上を見た。そこには、おかゆが入っていた器が下を向いて、その中に入っていたものを吐き出していた。僕の頭の上に。 少しの間、あまりのことに固まってしまった。我に返り、怒ろうと思ったとき、味噌汁をかけられた。ドボドボっと。それから続けてほうれん草の 「…………」 そのときには怒りの言葉も出てこなく、ただただ固まることしか出来なかった。 ……そう言えば、夏目が言ってたなぁ。昔の同僚が里香の機嫌損ねておかゆぶっかけられたって。 僕はそんなくだらないことを考えていた。そうしている内に里香がナースコールをしていた。とても冷たい声で、ご飯こぼしたんですけど、と。そして、こちらを一瞥すらしないで窓の外へ視線を移した。 僕はずっと固まっていた。最初は熱いくらいだった味噌汁が冷たくなってきた。なんだか、なにも考えたくなくなってきた。 しばらくしたら、コンコンと扉をノックする音して、里香、入るよ、と言う亜希子さんの声が続き、扉が音を立てて開いた。そしてすぐに、う……、とうめき声が聞こえた。さっきの看護婦と一緒で、里香の怒りのオーラを感じ取ったんだろう。亜希子さんでもやっぱ里香は恐いんだな。 僕はゆっくりと亜希子さんのほうを向いた。引きつった顔で、扉の取っ手と雑巾を持ったまま石になっていた。 亜希子さんは僕が見ているのが分かると、口を開き――とお思ったら一度閉じた。取っ手を放して頭をかき、視線を僕から 「裕一」 「はい」 「風呂入ってきな」 「入っても良いんですか?」 入院患者は毎日いつでも風呂には入れるわけじゃない。医者から決められた回数しかはいれないんだ。ちなみに僕は昨日入ったばかりだ。 亜希子さんはめんどくさそうに言った。 「とにかく入ってきな。どうしようもないだろ」 僕はそれを聞くとゆっくりと立ち上がり、のろのろと亀の様に歩いた。いや、亀というより幽霊かな。 僕の目は虚ろだったけど、亜希子さんの痛々しい物を見る ◇ 僕は、はあぁぁと深いため息を漏らした。風呂まで来るのがこんなに長く感じたのは初めてだな。 ……にしても、里香すっげぇ怒ってたな。どうしよう……。 腕を組み、う〜んとうなって考えてたら、体がぶるりと震えた。ご飯をぶっかけられて濡れた服はすっかり冷えて、とても寒かった。ただでさえ冬だから寒いのに、この格好のまま考えてたら風邪をひいてしまう。ただでさえ肝炎で入院してるのに風邪までひいてしまうなんてたまったものではない。僕は服を脱ぎ始めた。 上着に手をかけた同時に、いきなり扉が勢いよく開いた。 「よう、 「にして、お前も災難だったな」 そう言う夏目はいたずらっぽくにやにやと笑っていた。 「まさかもう一度おかゆぶっかけられた奴、見れるとは思わなかったぞ」 「それは良かったっすね。二度あることは三度あるって言いますし、もう一回見れるかもしれませんよ」 「そりゃいいな」 夏目がうははと笑った。あーあ、下着も味噌汁で白っぽく染まっちゃってるよ。これ、しぼれるんじゃないか? 「それで戎崎。どうしてまた里香の機嫌損ねたんだ?」 「どうだっていいじゃないですか」 ズボンはそんなに濡れてないな。だけど、かがんでたからひざの辺りが濡れてるな。 「いいだろ。教えろって」 「嫌です」 「教えろって」 「嫌です」 夏目はしつこく聞いてくる。その度に、僕の声が殺気立ってくる。 「おい、教えろって」 「うるさいな! 嫌だって言ってるでしょう!」 つい叫んでしまった。夏目がにやにやと笑っている。クソ、このバカ医者、僕をからかうためにわざわざ自分で服を持ってきたな。なんて嫌な性格してるんだ。 「教えろって、戎崎」 「ああ、もう。うるさいな! 転んだら持ってた本が飛んでって里香の顔が当たったんですよ!」 僕はそう言って、さっさと風呂場へ入った。あのバカ医者め。絶対にいつか痛い目にあわせてやる……。 ◇ ……ったく、あのクソガキ。なんでこの 私は不機嫌な少女に話しかけた。 「ねぇ、里香」 「……なんですか、谷崎さん?」 良かった、返事してくれた。私は内心ほっとする。 「裕一、一体なにをしたんだ?」 「本を私の顔にぶつけました」 ……そりゃ怒るよ。全く、バカだね。ホントバカだよ、裕一。 「でも、わざとじゃありませんよ。裕一が転んだときに、持ってた本が飛んできたんです」 なんで転ぶかな、あのガキは。もっと気をつけなよ。まあ、なっちゃったことを言っててもしょうがない。 「あのバカも謝ってるんだろ? 許してやったら? わざとじゃないんだしさ」 「…………」 全く、この娘は強情なんだから。もうちょっと素直になれないんだろうか。けど、この娘にそんなこと言っても無駄なだけだ。私は一つため息をした。 彼女はずっと窓の外を見ていた。私が話しかけている間もだ。気になったので、聞いてみた。 「なに見てるんだ?」 「砲台山です」 「砲台山?」 なんで砲台山なんて見てるの――と言う前に、あることを思い出した。あのバカと彼女が出会ったばかりのことを。あのバカが彼女を砲台山へ彼女を連れてったことを。私たちには迷惑でしかなかったけど、彼女にとってはとても大きなことだった。 「強情だね、あんたも」 そんな言葉が自然と口から出ていた。彼女は黙ったままだ。私も砲台山を見た。別になにかあるわけじないけど、なんとなく。ただ、なんとなく見ていた。 ……砲台山か。ここに行った日から一変したんだよね。……いや、あの子たちが初めて会った日から変わってたのかな。砲台山を見てると、あのバカと彼女の騒ぎを思い出した。 「……るす」 「え?」 思いふけていた 「もう一回謝ったら、許す」 その声は、先ほどと比べればだいぶ優しくなっていた。 「……そっか」 私は立ち上がり、病室から出ようとした。そのとき、 「裕一に言っておいてください。謝ったら許すって」 「……わかったよ」 片手を挙げて答え、病室から出た。あのバカに教えたら、踊りそうなぐらい喜ぶだろうなと思いながら。 ◇ 僕は風呂から出て、里香の病室へと足を運んでる。それにしても、どうやって里香の機嫌を取ろうか。普通に謝るだけじゃダメだろうな。でも、このままだったら夕飯もぶっかけられそうだな……。なにかナイスな言い訳はないだろうか? 何でもしてやるから! って言っても意味無いだろうな。……と言うか、今でもなんでもしてるか。本なんでも好きなの買ってやるから! ……さっきと変わらないな。 里香の機嫌を直すために思考をめぐらせていると、 「さっぱりしたかい、裕一?」 亜希子さんが話しかけてきた。 「あ、はい。ずいぶんとさっぱりしました」 「そっか。……でも、あんたもバカだねぇ。なんで転ぶかな。もっと気をつけなよ」 なにか言い返したかったが、良い言葉が見つからなかったので仕方なく、「はい」とうなずいた。 「そうそう裕一。里香が、謝ったら許すってさ」 「……え?」 一瞬、自分の耳を疑った。謝ったら……許すって聞こえたんだけど……。 「本当ですか?」 つい聞き返してしまった。だってさ、あの里香がそんなに簡単に許す、なんて言うわけない。すっげぇ強情なんだぞ、里香って。 「本当だって。ほら、早く行きな。里香の気が変わっても知らないよ」 確かにそうだ。里香は気が変わりやすいんだ。それはもう、山の天候よりも変わりやすい。 「は、はい。ありがとうございます!」 僕は早口で亜希子さんに言って、駆け出した。 僕は里香の病室の前まで来ていた。走ってきたので呼吸が乱れている。少し扉が開いているので、里香に僕の呼吸音が聞こえているだろう。呼吸を整えるように深呼吸をする。……よし、行くぞ。 「里香、入るぞ」 扉に手をかけ、開ける。なぜかその扉はいつもより重く感じた。開けると同時に僕は言った。。 「ごめん里――」 そこで言葉が途切れた。 ドスッ そんな音を立て、僕の頭にすごく重くてとがったもが落ちてきたからだ。僕は頭を抱え座り込んだ。無茶苦茶痛い。マジで痛い。頭が割れるんじゃないかと思うほどいたい。辺りを見てみると、かなり厚い国語辞典(箱入り)が落ちていた。扉が重かったのはこれが乗せてあったからだろう。確か前にもされた気が……。確かそのときも扉が少し開いてたような……。 何するんだよ、里香――僕は言いかけた言葉を飲み込んだ。ダメだダメだ。ここで里香を怒らせるようなことを言っらダメだ。僕は怒りと痛いのを抑えて、亜希子さんの助言通り、 「ご、ごめん、里香!」 頭を下げて謝った。里香の小さく息を吐く音が聞こえる。下を向いているから表情は分からないけど、怒ってはいないのと、仕方ないな、と言う雰囲気は分かった。 「今度あんなことしたら許さないから」 頭の上からそんな言葉が降ってきた。 「う、うん。絶対しない!」 顔を勢い良く上げ、うんうんと何度もうなずいた。疑わしそうな里香の 「ほんとぉ?」 「ほ、ほんとほんと!」 「でも裕一、バカだからなぁ」 そう言って、里香は笑った。 「誰がバカだよ!」 僕は少しふてくされる。 「だってバカなんだもん」 当然だ、とでも言うように里香は言う。里香、笑ってるよ。僕のことをバカって言って。全く、なんてひどい女なんだ。 「人のことバカって言うな!」 そう言って、僕も笑った。なんでだろう? 里香にバカって言われるのが、すっげぇ嬉しい。いや、別にいじめられるのが好きなんじゃないぞ。ただ、里香の明るい声を聞くのが、里香の楽しそうな笑顔を見るのがとても嬉しい。ああ、さっき辞書落とされたことなんてどうでもいいや。里香の笑顔見てたら、そう思えてきた。 僕たちは声を上げて笑った。 うはは。 ははは。 うはは。 ははは。 疲れるまでずっと笑った。笑い終わったわ、里香は言った。 「裕一」 「なんだ?」 さっきまで笑っていたので、里香は笑ったままだ。 「屋上、連れてって」 「おう。行こうか、屋上」 「うん」 里香は元気良くうなずいて、手を差し出した。僕はそれを右手で握った。里香がベットから降りるのを、引き上げるようにして手伝った。 「よし、行こう」 「おう、行こうか」 僕たちは病室を出た。もちろん、手は握ったままだ。病室を出るとき、里香を見た。そしたら笑ってくれた。さっきと同じように、とても明るく、かわいい笑顔だ。僕も明るく笑い返した。 僕は大切なものを手に入れた。それは何よりも、世界よりも大切なもの。 僕たちは、ずっと一緒に手を取り合って歩いていくんだ。 だけど、僕たちには必ず終わりが来る。明日か、明後日か、それとも数年後か分からないけど、僕たちが歩く道には必ず終わりがある。 だからこそ、僕は願う。この大切な日が、できるだけ長く続くようにと。できれば、永遠まで続くようにと。 無理なのは分かってる。だけど僕は願う。 もろくて、淡くて、不確かな願い。だけど、だからこそ僕は願う。 里香との大切な日々が、ずっと、ずっと、ずっと続くように、と―― あとがき 最後まで読んでくれた人、ありがとうございます。 つーことで、『半分の月がのぼる空』のパロディです。半分の月を読んだ人じゃないと分からんなーってな内容になってしまわれました。 ……作者の力量の問題です。すいません。 で、描こうと思ったきっかけは、2巻の夏目が言った台詞です。「同僚が里香の機嫌を損ねて……」ってやつです。 なんか最後のほうが変になっちゃった気がします。まだまだだな、自分。 では最後に、面白いと思ってくれた方、ありがとうございます。イマイチだなーと思った方、出来たら悪いところを作者までメールしてくれるとありがたいです。 そして、最後まで読んでいただきありがとうございます。 ゴハンぶっかけ事件 その2 END |